俺には「恵方巻」が理解できない
こんばんは、WoodLetterというものです。乱文失礼いたします。
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突然ですが、私には「恵方巻」が理解できません。
いや、理解していないことに気づいてしまったのです。
ja.wikipedia.org「恵方巻」については詳しくはWikipediaを参照していただけると幸いです。
端的に表すと太巻き寿司のことです。
早速「恵方巻」の理解できないポイントを3つ挙げてみましたので、ご一読していただければ幸いです。
1.「太巻き」であることがよくわからない
まずご覧いただきたい写真があります。
これが「恵方巻」の正しい食べ方とされています。
・・・不思議じゃないですか?
古来、人間には食べやすいように食材を加工する「調理」という過程があります。「調理」の過程の中には、より美味しく食べる他に、食べやすい形状に加工するといったものがあります。
一方、上記の写真では男性がその口腔内のキャパシティを大幅に超えた太巻き寿司を一思いにかぶりついています。
我々人類は「刃物」という道具を用いて、太巻き寿司などの大きく、長い食品を丁度よい大きさにカットする技術を有しています。もしこの技術に反してかぶりつこうものならば、その日からあなたには「食いしん坊キャラ」が定着することとなるでしょう。あだ名はホンジャマカの石ちゃん。
しかし、この「恵方巻」においては石ちゃんはもちろん、大食いの片鱗も見せない華奢な人間や小さな子どもなど老若男女を問わず一思いにかぶりつきます。心の中の石ちゃんが表へ出てくる―――
それが「恵方巻」です。
2.「恵方」がよくわからない
「恵方」とは、「恵方巻」を食べる際に向く方角だとされています。その方角は毎年異なるそうですが、今年(2019年)の恵方は「東北東」とされています。
・・・東北東?
東でも北でもありません。「東北東」です。普段の生活ではまず聞かない言葉です。
聞いたことありますか、東北東って。
仮に街で道に迷ったシチュエーションを想像してみましょう。なお、スマホは私が水没させたので使えないものとします。
その時、あなたは勇気を出して街行く人にこう聞くことでしょう。
「すいません、〇〇駅はどちらにあるか教えていただけますか?」
すると、相手はこう答えます。
「ここから東北東の方角ですよ。」
もはや不親切などという次元ではありません。私が想像するに、この時のあなたの感情は「恐怖」で支配されます。未知との遭遇です。
道を聞かれて方角で答えるのも大概意味不明なのにもかかわらず、相手から引き出した回答は「東北東」―――
余談ですが、恵方には前述した「東北東」以外にも「西南西」「南南東」「北北西」があるそうですが、普段の生活では使わないことには変わりありません。もしあなたがこれらの言葉を使った日には、あなた自身が豆を撒かれる側になることは疑う余地もありません。
ただ一つ、「恵方巻」を除いては。
※恵方には陰陽道において、その年の歳神様がいる方向という意味があるそうですが、恵方巻をたくさん作って捨てている偉い人たちもそんなことは知らないと思うので触れません。知っていてやってたらバチあたりにもほどがある。
3.「なぜ全国的になったのか」がわからない
Wikipediaを読まれた方ならお分かりだと思いますが、この「恵方巻」もともとは近畿地方の一部で行われていた風習だそうです。
まぁ「コンビニ業界が広めたんだろ。」って言われたらそれまでなんですけど、それにしたって拡散が早すぎるように思えます。Wikipediaを参考にすると、コンビニ業界が恵方巻を広めはじめたのが1989年(平成元年)で、ミツカンの調査で認知度が9割弱に到達したのが2005年となっているので、僅か15年の間で節分の日に「恵方巻」とよばれる太巻き寿司をかぶりつく行為が、それまでの「豆まき」と並ぶポジションを得たことを示しています。
考えてもみてください、今まで外国勤めが相次ぎ、15年ぶりにようやく日本で落ち着けると考えていたサラリーマンの彼を。
帰国したところ、母国・日本では国民の大多数が太巻き寿司にかぶりついていた・・・
また、地域によって「恵方巻」には「無言で食べる」という風習がありますので、そのことを彼が疑問に思っていたとしても、直ぐに回答は返ってきません。一心不乱に一点を見つめながら太巻き寿司を食べるプロセスを彼は眺める必要があります。
果たして彼は食べるプロセスを眺め続けることができるのでしょうか?
私の予想では、変わり果てた母国に絶望してそのまま成田空港へトンボ帰り。JFK空港に再び降り立った彼はそのままニューヨーカーとして人生を終えることとなるでしょう。
最後に(弁明)
今回の「恵方巻」から一つ理解できたことがあります。
「恵方巻」は祭りであることです。
話は変わりますが、私の愛してやまない街・川崎には「かなまら祭り」という奇祭があります。詳しく説明することは省略させていただきますが、端的に言うならば「男性器を模した神輿を担ぎ、街を練り歩く。」といった祭りです。検索する際は自己責任で。
言うまでもありませんが、祭りの日以外にこの神輿を担いだ日には良くても川崎警察署で一夜を過ごすことになるでしょうし、最悪の場合は何らかと法的措置をとられるかもしれません。
このように「祭り」というものは普段では許されないことが許される傾向にあります。柳田國男氏の「ハレとケ」を用いた一部の民俗学研究では、普段の生活である「ケ」のエネルギーを蓄えるために、祭りや祝い事である「ハレ」があるとされています。
「恵方巻」もその一部です。したがって上記にあるような「道案内を細かな方角でする人」や「15年ぶりに日本に帰ってきたサラリーマン」が産まれることはありえないでしょう。「食いしん坊キャラ」はたまに見ますけど。
この結論に照らし合わせると、大量に作った恵方巻を廃棄することも10年後、20年後には一大イベントになることが想定されます。
そんなわけないか。
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