「辛味」は味覚ではなく触覚ではないかと体感した日
こんばんは、WoodLetterという者です。普段は鹿が主役です。前回の記事に書いたとおり、日報を1週間書く羽目になりました。この記事はその2日目です。
2日前、近所のスーパーマーケットのおつとめ品コーナーに新たに「シンガポール風焼きそば」が4つほど入った。いわゆる袋入りインスタント麺である。
300mlのアルミ缶に入った正体不明の酒や、大方ひな祭りで売れ残ったであろうアンパンマンが描かれたひなあられなど、今日日需要が皆無であろう古豪が鎬を削るおつとめ品コーナーの中では、主食である彼らは3日と生き残ることはできないだろう。かくいう私も59円の値札が貼られた彼を、興味本位でセルフレジへと持っていった。この時点で残りは3つだ。
そして今日という日がやって来た。巷ではホワイトデーらしいが、義理チョコすら貰っていないので、私には一切関係ない。先日までの初夏を思わせるような気候は姿を隠し、最高気温8℃とは思えない、みぞれが降る極寒の日である。加えて、私の心にもそこはかとない寒さを感じる。
この時点で私のOP(おでかけポイント)は0に等しくなっていた。しかし、私の部屋にはサバ缶しかなく、この冬が明ける頃には餓死してしまうほどの食料しかない。いや、一昨日買った彼がまだエコバッグの中に入っていたはずだ。
そう思い立った私は、急いで電気ケトルを沸かし、丁度よいサイズの丼を取り出した。本来、袋麺とは鍋で茹でることを想定して作られている。
が、ここで一つ明言しておこう。どんな調理法でも栄養は一緒だ。慣れた手付きで麺とかやくを取り分け、お湯を注ぐ。
待つこと2分、「俺の居場所は丼ではない」とでも言いたげな、売れ残りインスタント麺の彼をほぐしながらあることを考える。
「湯切りが面倒だ。」
元来、キッチンで湯切りをし、バコッとシンクの凹む軽快な音を楽しむのが、正しいインスタント麺のたしなみ方であろう。
だが、面倒なものは面倒である。そこで私は、自室の雨戸を開け、庭で湯切りを試みた。寒いのを嫌って出かけなかったというのに、結局寒気に当たる羽目になった我が身を哀れに思った刹那、一つの結論が導き出された。
「間違いなく失敗する。」
シンクならば、もし彼を溢したところで拾い集めればよいが、庭で湯切りをすることで土味の焼きそばが出来てしまうのは自明の理である。群馬県民でもあるまいし、仮に栄養があったところでそんなものを食べる趣味は毛頭ない。
……結局、シンクで湯切りをした。
「急がば廻れ」という格言と言うことすらおこがましい初歩的な言葉が、その時の私には寒気よりも酷く染みた。
無事に湯切りを終えて、彼に附属のかやくを掛けた時、私は重要なことに気づく。
「もしかして、今私の前に鎮座する食事は『辛い』のではないか。」
目の背けようのない事実だった。目を背けたところで、唐辛子という名の拷問器具は私の鼻腔を軽く、しかし確実に穿ってきた。
だがしかし、作ってしまった以上は捨てるわけにもいかない、これを「食べない」などという、神に背くような選択肢はないのだ。確かなる覚悟を決めて「食べ物」かどうか怪しい彼を口に運ぶ。
「痛い」
彼に抱いたファースト・インプレッションだ。この時点で彼を「食べ物」だとは認識できなくなっていた。
唇を焼き、口内炎を突く。そこに味などというものは存在しない、「辛味」とは味覚ではなく触覚、そう直感した。もはやインスタント麺ではなく「インスタント針地獄」とも形容すべき、水分が多分に含まれた彼を、私は額に汗を浮かべながらも完食することに成功した。
その時の私の部屋は、確かにエスニックな香りで包まれていた。もちろん、年中日本の夏が続いている様な気候のシンガポールで、本当に彼が食べられているのかという疑問は抱いたが。
もし私が閻魔大王だったら地獄に箱単位で発注するだろうし、蜘蛛の糸に縋ったカンダタだったらこの麺が天国から垂れ下がっていても、その先にあるものは天国という名の激辛地獄だろうから間違いなく無視する。
最終的に、私が彼に対して抱いた感想は以上の通りだ。
……末筆ではあるが、去年の今頃「エナジードリンク」と言い張ってタバスコ瓶を一気飲みした我が友人であるりょーたろー君と、インスタント麺の開発者である安藤百福氏に敬意を示したところで、本日の日報としたい。