道端に咲いたまるごとソーセージの話
こんばんは、WoodLetterという者です。普段は名前が長いという理不尽な理由でウレタンと呼ばれています。早速本日の日報です。日報を書く経緯についてはコチラを参照してください。
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日報も早いもので6日目だ。聖書の創世記だと、人間を始めとした地を這う生き物が造られた日らしい。しかし、極稀に地を這うべきでないモノが地を這っていることもある。
「まるごとソーセージ」である。
夕方の、客数の多いスーパーの目の前の丁字路の角を、まるごとソーセージは間違いなく這いつくばっていたのだ。どんな経緯があって、それが歩道に咲く一輪の花となったかは定かではない。一つ分かっていることといえば、私の目の前で赤信号を待つ老爺も、後ろで自転車にまたがっている中年の女性も、それに関心を示しながらも、所有者ではないということだ。もちろん私もその一人である。
まだヤマザキ春のパン祭りのシールも剥がされていないそれがなぜ、歩行者とともに信号待ちをしているのか。勿論、最初はそれを意気揚々と買った客が、気持ちが逸るあまりに落としたことに気づかなかったのだと考えた。
しかし、同時に私の中である疑念が走る。
「仮にパンを落としたとして、気づかないことがあるのだろうか」と。
何らかの拍子で落とすことはあるだろう。だが、多くの場合は落下音で気づくだろう。もし、気づかなかったとしても、他の買い物帰りの客がそれに気づき、落としたと想定される人に声を掛けるだろう。
だが、もしこれが「わざと落とされたモノ」だったらどうだろうか。信号が変わる寸前でそれをわざとらしく、だがしかし正確に落として、青信号を走り抜けていったのだと考えれば、本来地を這うはずのないそれが存在するのも理解に難くない。まるで梶井基次郎の「檸檬」のような心境を持った犯人の手によって、それは地を這うことになったのかもしれない。
ただし、檸檬でもなければ、丸善でもないのでそこに文学性は希薄だ。もし、梶井基次郎が「まるごとソーセージ」という短編小説を書いたとしたら、間違いなくその名を後世に残すことはできなかったであろう。
さて、アスファルトに横臥する、健康の対義語のような彼を見ながら、私はある思いつきをしてしまった。
「まだ食べられるのではないか」
白い皿と引き換えられるシールも剥がされておらず、いわんや開封された痕跡も一切見えない。確かにそれは地面というアウトローに存在しているが、彼は菓子パン棚という秩序の中に存在する、他の同種の連中と何ら遜色のない状態である。
卑しい。余りにも卑しく、到底文明人とは思えない発想だろう。だがそれを拾ったところで現実問題咎められることもないだろう。その背徳感が100円程度の彼に輝きをもたらしているように思えた。
幸いにして、私にはモラルという名のプライドが備わっていた。私はそれを拾い上げることもなく、しかし確かに彼に対して爆弾の様な輝きを覚えながら青に変わった信号を渡ったのであった。
さて、ここまで書いてその後「まるごとソーセージ」がどうなったか気になってきた。彼との一時の逢瀬はこのパラグラフを記述する丁度2時間前の出来事である。幸いにして外は春の夜風に包まれていて、無駄に散歩するのに抵抗のない状態だ。ここまで書いた私には彼がどうなったかを見遂げる義務があるように感じる。
なので今から行ってこようと思う。
……夜の住宅街を走り抜ける。暴君に友を人質に取られたメロスに思いを馳せ、シラクサではないどこかを確かに走る。頼む、このままではこの日報の信頼性すら怪しい。
件の丁字路にたどり着いた。一瞥するが、彼の姿は見当たらない。悪辣な誰かによって足蹴にされたことも考慮し、周辺も探すが全く見当たらない。残念に思いながら、慰めに彼とよく似たまるごとソーセージを購入して帰ろうとするが、既に売り切れており、それすらも叶わなかった。
えも言われぬ感情を抱きながら、店を出た瞬間、その姿はあった。
「まるごとソーセージ」である。
信号機の何が入っているかわからない箱の上に善意の誰かの手によって運ばれたらしい。おおよそ地上から180cm、菓子パン棚よりも高い。本来、まるごとソーセージとして生を受けて見ることはなかったであろう景色を彼は見ているのだ。
私は、そのことにえたいの知れない高揚を覚え、団地の明かりが煌々と彩っている住宅街の道を下って行った。
末筆ではあるが、毎年「春のパン祭り」を粛々と執り行い、使い勝手の良い白い皿をくれる山崎製パンと、第一次産業に従事している皆様に深い敬意を示し、本日の日報としたい。
ご拝読、ありがとうございました。よろしければ他の記事もタイトルだけでも見ていただければ幸いです。