WoodLetter日記

この日記の信憑性は一切保証しません。また、一切の責任も負いません。

俺は「飼い犬」が怖くてたまらない。

こんばんは、WoodLetterという者です。普段はYouTubeなんのタメにもならない情報や、ゲーム実況動画を流す鹿を飼っています。妄言ではありません。

 

 

 

さて、本日私が提唱したいことはたった一つです。

 

 

それは「散歩している犬が怖い」ということです。

 

 

 

……以上です、この時点で共感していただいた方はブログを閉じていただき、デイリーポータルZを読んでいただいて構いません。

 

 

「いや、犬は怖くない、犬は可愛い!!」とおっしゃる愛犬家の皆さま向けに、今から3つほど理由を挙げさせていただくので、ぜひご一読のほどよろしくおねがいします。なお、太字だけ読めば言いたいことが分かるエコなつくりとなっています。

 

 

まず前提として、私が嫌いなのは「飼い犬が可愛くて盲目になってしまっている飼い主」の方です。犬に恨みはない、このことだけでも把握していただければ幸いです。

 

 

 

 

1.「飼い主である人間の前を歩いている点が怖い!」

 

犬を散歩させている方は気づかれていないかもしれませんが、私が最も怖いと思う点はコレです。

 

 

端的に言うならば「もしお前の飼い犬が暴走したとき、お前の前を歩く犬を制御できるのか」ということです。

 

 

ここで能天気に犬の散歩をしているニンゲンは「え~だって手綱も首輪もあるし大丈夫でしょ☆」という浅はかな考えに至ることは私にでも想定できます。

 

 

 

しかし、それは「犬をナメている」「自分の能力を過信しすぎている」という二点において批判させていただきます。

 

 

まず、忘れていただきたくないのが「犬は吠える」という事実です。たとえ飼い主がしっかりと手綱を握ったとしても、飼い犬は通行人に向かって吠える、最悪の場合は噛み付くことが出来ます。この点を顧みない類のニンゲンは犬を軽視していると言わざるをえません。

 

 

そして往々にして人の瞬発力は犬には敵いません。自らの飼い犬の異変に気づくが最後、初動で犬に遅れを取った飼い主は自らの飼い犬が通行人に吠えかかるのを抑止することは不可能と言っても過言ではないでしょう。

 

 

加えてこの手の飼い主にありがちなこととして「長いリードを使っている」という共通点があります。偏見ですが、私の住んでいる地域はそういうヤツに限っていざという時に制御できていません。

 

 

リーチが長ければ、先程述べたような自体を引き起こすことは勿論、純粋に道幅を取って邪魔なのでいい点が一個もありません。加えて往々にしてそのような輩は車道側に犬が面すように散歩しています。

 

もしこれが犬ではなく女性だとしたら、その男は熨斗をつけた上に「気の利かないダメ男」の烙印を押されて、一生外を歩くことが許されなくなることは間違いありません。リードを付けている時点でただの羞恥SMですが。

 

 

 

 

特にこの間なっがいリードでミニチュアダックスフントを細い道で散歩していたヤツはマジで許さん。吠えかかった上に無視して通り過ぎていったことを1年たった今でも鮮明に覚えているからな、覚悟しておけよ。

 

 

 

ここで一つ誤解をしていただきたくないので、再度記述いたしますが、私は別に犬は嫌いではありません。むしろ好きです。

 

 

確かに自分の目の前に犬がいたらたじろいでしまうので「苦手」とは言えるでしょう。

 

 

しかし、テレビやTwitterでバズっている動画を見る分にはむしろ釘付けになる部類なので、「苦手」ではありますが、決して「嫌い」ではないのです。

 

 

 

私が嫌いなのは「生き物を飼っている自覚が欠如している部類の飼い主」であることだけでもどうかご理解いただければ幸いです。ついでに言うと動物にアテレコするタイプのテレビ番組もちょっと嫌いです。

 

 

 

 

 

2.「本当に犬が好きなのか分からないのが怖い!」

 

これは前行で述べたような軽薄浅慮の極みのような飼い主への批判です。

 

 

前述のヒモの長いダックスフントの飼い主もそうですが、そのような飼い主は犬のなすがままにしているだけで、本当に好きなのかが疑問です。

 

 

もちろんここで「犬を飼うという行為自体が可哀そうだ!野生バンザイ!」みたいなことを言う心づもりはさらさらありません。それに、人間の歴史において人以外の動物の役割が大きいことは言うまでもありません。犬が人間にとって縄文時代から良きパートナーであったことは周知のとおりでしょう。

 

 

ただ、一つの尊い命であり家族の一員でもあるかわいいかわいいワンちゃんを前述のダックスフンドの飼い主のように、ラジコンで遊ぶ幼児が如く、ぞんざいに扱うことは看過し難いことです。

 

アクセサリや100均の観葉植物であるかのように扱うその姿勢は、地獄でその身を七度焼かれるのに値する大罪と言っても過言ではありません。

 

 

そのような外道はaiboですら飼う資格はないでしょう。ミドリムシでも飼っていればいいのです。およそ100μmのその体躯にリードを縛りつけ、近所を散歩した暁にはその辺のチワワだのポメラニアンだのを散歩させている有象無象よりも注目の的になることは間違いなしです。

 

 

 

 

 

3.「話が通じないから怖い!」

 

まずは前述の流れを崩し、いきなりレベル2の問題提起をしたことを心より謝罪させていただきます。話が通じないのはお前だという思いは抑えていただければ幸いです。

 

 

「お前が何を言っているか分からない」というご批判はもっとものことであると存じ上げます。

しかし、「犬と人間では会話は出来ない」と言い換えれば何となく分かっていただける方もいらっしゃると信じています。極稀に会話できると自称する謎の人物もいるようですが。

 

 

まだ理解していただけない方にも、「犬」を「人間」に置き換えていただければ分かっていただけると思います。

 

 

こちらが会話を試みても「ワン!ワワワン!」とだけ答え、挙げ句の果てに大口を開けてこちらに迫ってくる人間……

 

こうやって書くとB級どころかZ級映画感にあふれていますが、実際にこんなヤツがいたらまず関わりたくないし、どんな人間でも会話を試みたことを後悔し、人通りの多い大通りに向かって遠吠えしながら全力疾走することでしょう。200年後のバイオハザードは犬人間がエネミーのゲームになってると思います。

 

 

 

「犬と人間では違うだろ!」という批判はごもっともです。しかし、犬に怯える民としては「会話が成立しない」だけでも十分怖いのです。前世はきっと生類憐れみの令で死刑になった町人。

 

 

特に小型犬ともなると、大型犬よりも知能で劣るイメージがある(=すぐに吠えかかってくる)上に、自分の足元を歩いているのでマジで恐怖です。いつ襲いかかってくるか分からない、例えるなら地雷原を歩いているようなものです。

 

 

かといって警戒して目線を地面に落とそうものならば、待ってましたとばかりに生物兵器という名の犬は我々に噛み付いてくることでしょう。

つまるところ、小型犬とエンカウントすることは即ち、約束されたBAD ENDであることを皆さまにおいてはもうご理解いただいていることだと存じ上げる次第です。

 

 

 

もちろん、ちゃんとした飼い主が連れている分には、たとえ兵器を連れていようがなんとも思いません。銃を見ただけで文句を言う人間が存在しないことと同様です。

 

 

しかし、市中で奇声を叫びながらトンプソン・サブマシンガンを持ち歩いている人間がいたらどうでしょうか。大半の人間はその思想なきテロリストの凶行を恐れ、我先にと逃げ惑うことでしょう。

 

私にとって無法者が連れ回している小型犬とは、それに勝るとも劣らない「恐怖」です。また、そのような奴に「ワクチン」という概念があるとは思えないので、噛まれたら最後、今日日感染するはずのない病にかかった挙句、針地獄のような苦痛に苛まれて死ぬことは十分に想定の範囲内です。

 

 

ただでさえ犬とは会話が成立しないのに加えて、飼い主とも成立しなければその瞬間「Dead or 死」となってしまいます。

 

 

 

 

 

最後に

 

以上、小型犬を散歩させる飼い主への偏見と苦情でした。冷静になってみたら私は何と戦っているのでしょうか。

 

 

ともあれ、犬を飼っている皆さまにおかれましては、大切に扱っていただけるように提案する次第です。

 

また、飼い主のあなたにとっては可愛らしいワンちゃんでも、偏屈な人間から見れば「獰猛な野犬」であることを頭の片隅に入れていただければ幸いです。いや、マジで怖いんですって。ホントに。

 

 

 

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彼に忖度してカカオ豆を贈った日

2月14日はバレンタインデー―――

 

 

こんばんは、WoodLetterと呼ばれている者です。主に私が呼んでいます。

 

さて、2/14は俗にバレンタインデーと呼ばれる日です。一応、ご存知ない方に簡単に説明させていただきますと、「女性が男性にチョコレートを贈る日」です。

 

海外ではまた異なるイベントが行われているそうですが、鎖国していて他国の情報が一切入ってこないという仮定のもと、この日記は書かれているので一切考慮に入れないこととします。

 

 

もちろん、イベントごとが大好きな私も先人たちの例に習って、親しい男性(仮にR氏とします。)にチョコレートを贈ろうとしたのですが、2月に入るやいなや、R氏にこのような言葉を投げかけられました。

 

 

「お前は2月いっぱいチョコレートを俺の家に持ち込むな。」と。

 

 

 

衝撃でした。

 

確かに彼には「チョコレートを貰わない」「受け取るのを拒否する」という選択肢があるのも事実ですし、彼がその選択をすることに何ら問題はありません。

 

もし私がこの言葉を無視して彼にチョコレートを贈ったならば、よくて友人関係の破綻、最悪の場合には東京地裁の被告人席に座ることとなるでしょう。

 

 

この日記を読まれている方においては、彼に対して「人の好意を蔑ろにする破綻者」「対人関係を破壊することが趣味の異常者」などの印象を持たれることでしょう。

 

しかし、彼はそのような人間ではありません。というか仮にそのような人間だとしたら贈り物とかしません。

 

 

そこで私は彼の言葉を今一度振り返ってみました。

 

 

「チョコレートを持ち込むな……」

 

 

そうです、チョコレートを持ち込むなということは、裏を返せばチョコレート以外のモノを贈ってほしいという意味でしょう。

 

 

しかし、チョコレート以外の贈り物といわれても、このモノが大量生産され、氾濫する世の中、何を贈ろうか迷いどころです。

 

ん?「モノが大量生産され、氾濫する世の中……」

 

 

 

……バレンタインデーの経済効果はおよそ1,300億円*1(2018年7月)ともいわれています。

 

この数字はアマゾンの創業者であるジェフ・ベゾス氏の総資産の0.7%に匹敵する計算となります。0.007ベゾス。

 

 

その事実を象徴するように、この時期になると、スーパーには既成品のチョコレートが溢れかえります。

 

普段板チョコくらいしか売っていないチープな店にも、到底似合うワケのないGODIVAの文字と馬に跨るレディ・ゴダイヴァの印章がまるで戦場で旌旗をたなびかせる様、不相応に輝くのはもはや風物詩となっています。

 

まぁ別にレオニダスでもモロゾフでもなんでもいいんですけど。あと鎖国は解けました。

 

 

彼はそんな日本の現状に一石を投じたかった―――

 

「チョコレートを持ち込むな」という言葉はその思いが産んだ言葉でしょう。

 

 

それならば「手作りチョコレートがほしい」とほのめかせば良いのではないかと思う方もいることでしょう。

 

しかし世間一般で「手作りチョコレート」と呼ばれるモノは、所詮彼にとっては「市販のチョコレートをただ溶かして固めたモノ」に過ぎないのです。

 

ここで念の為に申し上げておきますが、前述の意見はあくまでもR氏の意見であって私の意見ではありません。誤解のないように。

 

この考察から導き出される贈り物はただ一つ、そうです、

 

 

「カカオ豆から作った手作りチョコレート」です。

 

 

 

しかし、彼は一つ重大なMistakeを犯してしまいました。「チョコレートを持ち込むな」と。

もちろんこの「チョコレート」にはカカオ豆から作ろうが、チロルチョコであろうが何であれ含まれます。

 

もし、この言葉に反して「カカオ豆から作ったチョコレート」を贈ったならば、私の運命はよくて東京高裁、最悪の場合は病院であることは自明です。

 

 

そこで、一段階前に戻って「カカオ豆」を贈るのが適切ではないかと結論を出します。

 

 

早速注文をして、

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届いて、

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手紙(メモ)を添えて、

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あとは本人に手渡しするだけです。というか今気づいたんですけど、「手作りチョコレート」より手抜きになってませんか?コレって。

 

まぁきっと渡される本人は多分喜んでくれると思うので良しとしましょう。ホワイトデーのお返しに期待です。

 

(3/15 追記)

貰えませんでした。

 

 

2/5を「ポップガード記念日」にしたい

こんばんは、WoodLetterです。

 

昨日は最高気温19℃、もはや春と言っても良い気候でしたが、今日は冬に逆戻りです。こうも気温が乱高下していると、地球側のプログラム上のバグなのではないかと思いますが、思ったところでどうしようもないのも確かです。

 

普段、天気の話をするのは話すことが無いとき、上辺だけの会話で中身が無いことが多い(気象予報士の方は除く)のですが、この日記も中身が無いといった点では共通していることに対し、私は驚きを禁じ得ません。

 

 

さて、突然ではありますが、本日・2月5日を「ポップガード記念日」と定めたいと思います。

 

まず、ポップガードの説明をさせていただきますと、

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ガッツポーズをしている男性は関係ありません


写真上のマイクの前方にある、黒色の円型の物体が俗に「ポップガード」とよばれるモノです。

 

このポップガード、「破裂音を発した際に出る風によって生じるノイズを軽減する」という重要な役割を持っています。ちょっと何を言ってるか分からない、という方は試しに「パ行」を強く発声してみてください、「パピプペポ」です。パ行が嫌いな方はバ行でも構いません。

 

 

 

 

いかがでしょうか、発声した際に風が生じたと思います。ここで賢明な方であれば、「パ行を発明した人は何を考えていたのか」という疑念に駆られると推察します。

 

そうです、パ行は発音しづらい上にノイズを発生させるという非常に使い勝手の悪い言葉なのです。

そうとも知らず、日本人はパ行を使い続けた結果、とてつもなく強大な問題に直面します。

 

 

 

「パ行の録音が出来ない。」

 

 

 

・・・今までパ行に甘えていたツケがここで返されたという形でしょうか。しかし、パ行に慣れてしまった日本人にはもうパ行の使用をやめることができません。

 

もし、強大な権力を用いてパ行の使用を禁止したとすれば、日本中の赤ちゃんの初めて発する言葉が「パパ」ではなく「ママ」になってしまいます。

そのような事態に陥ったとすれば、日本中のパパは勤労の意欲を失い、日本は崩壊への道筋をたどることとなるでしょう。

 

したがって、既に日本はもうパ行なしでは成り立たなくいるのです。これが俗に言われる「パ行中毒」というものです。

 

この事態を解決するのが、前に述べた「ポップガード」

こうしてポップガードのおかげで、パ行を発する際のノイズが軽減され、日本は滅亡を回避することができたのです。

 

 

まぁ、このストーリーは嘘なんですけど。

 

だいたい赤ちゃんの初めて発する言葉をポップガードを準備した上で録音する状況が意味不明です。

 

余程空気が読める極めて日本人的な赤ちゃんか、四六時中ポップガードをつけたマイクを赤ちゃんに貼り付けておく親のどちらかが多数派を占めない以上、このストーリーは成立しません。

 

 

いずれにせよポップガードの偉大さをご理解いただいた上で、本題に戻ります。

 

 

「ポップガード記念日」を制定したいというサブジェクトです。

 

はじめに、記念日の定義をWikipediaで調べてみますと、

記念日(きねんび、: Anniversary)は、何らかの物事や過去の出来事を記念するである。広義には週間・月間なども含み、年中行事も含むことがある。

記念日 - Wikipedia

 と、記述されています。

 

また、このページの後半には

日本国内には記念日を「指定」や「制定」する任意団体が複数存在するが、下記のいずれも公的機関ではない。記念日を制定するのにこれらの団体の認定を受ける必要も義務もない。

 とも述べられています。

 

したがって、日本国及びその期間が定めた記念日ではないという点においては、今回制定しようと試みている「ポップガード記念日」にせよ「バレンタインデー」にせよ同様であることが判明しました。

 

また、記念日を定めることに法律上の規制もないことから、この場で私が「毎年、2月5日はポップガード記念日である。」と宣言したところで何ら問題は無いことがお分かりいただけたのではないかと考えます。

 

次に2月5日がポップガード記念日である根拠です。

通常、記念日とされる日には何らかの拠り所を必要とし、例えば直近の祝日である「建国記念の日」を例に上げますと、

 

国民の祝日に関する法律

第二条 国民の祝日」を次のように定める。

建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。

e-Gov法令検索

 

と、法律で定められています。また、法律で定められていないような「バレンタインデー」のような記念日でも、

 

元々269年ローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日だと、主に西方教会の広がる地域において伝えられていた。

バレンタインデー - Wikipedia

 

このように記念日となる根拠があります。

 

なんでそんな日がチョコレートを送る日になったのか、なぜ私はチョコレートを貰えないのかなど様々な疑問がありますが、その点につきましては、後日覚えていたら触れます。

 

 

しかし、近年では下記のような短歌が有名になりました。

 

『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

俵万智「サラダ記念日」

詳しくははてなキーワードを参考にしていただけたらと思います。

 

 

そうです、本来なんでもない日である「七月六日」「サラダ記念日」と定めることで記念日へと昇華させたのです。ですが、この短歌一つで終わればただの2人の間の記念日で終わります。

 

しかし、この「サラダ記念日」は280万部ものベストセラーを記録。つまり2人の間での記念日、という一見根拠としては十分に見えないモノを、280万もの人と共有することによって「七月六日はサラダ記念日である」という認識をパブリックなものにすることに成功します。

 

確かに2月5日をポップガード記念日とするのに相応しい出来事は存在しません。

けれども、上記のように根拠としては脆弱にもかかわらず、記念日としての認識を大衆と共有している事例も存在します。

 

 

以上のことから私は、

「2月5日はポップガード記念日である。」

とここに宣言します。

 

 

一応、根拠として何故「2月5日がポップガード記念日なのか」について説明しますと、私がポップガードにまつわる記事を書いたからという根拠です。

 

 

お目汚し、失礼しました。以上WoodLetterがお送りいたしました。

 

 

使用したフリー素材

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「暦の上では春」という言葉を理解したくない

こんばんは、WoodlLetterという者です。

さて、「節分」という「鬼」と呼ばれる人物に対して、大豆を投げつけて追い出そうと試みる排他主義的なイベントが終わり、「立春」を迎えて暦の上では春を迎えようと・・・

 

ちょっと待ってください、「暦の上では春」ってなんでしょうか?

この時期になると、お天気キャスターは誰も彼もが「暦の上では春」と言います。しかしあまりにも実情に反しているのではないかと私は考えます。

 

そこで、過去20年間の2/4の東京での最高気温及び最低気温の平均をこちら(東京の過去の天気 2月4日 - goo天気)を参考に求めてみると、

平均最高気温:9.74℃

平均最低気温:2.75℃

 

寒いっ!

どう考えても寒い。せめて気温が2桁を超えてから春を名乗ってほしいものです。

 

ただし、この「暦の上では春」というのは明治時代以前に用いられていた旧暦の話。

実際に旧暦を今の暦に照らし合わせると、2019年の場合は3/10に「暦の上では春」を迎えることになり、(年によって日は異なりますが、だいたい3月のどこか)2月初旬よりは暖かな時期に春を迎えることになります。

 

そうするとやはり理解できないのは「暦の上では春」でしょう。

我々現代日本人は「太陽暦」とも呼ばれる1年がおよそ365日で構成されている暦を普段使いしています。そんな常識の中で生きていると、急に出てくる「暦の上では春」という言葉。

この言葉はあくまでも「太陰暦」とも呼ばれた旧暦上の概念ですので、現代の暦には適合しないはずなのです。

 

それにも関わらず、世の中に蔓延るこの表現。

 

例えるならば、スマホでネット記事を読んでいる際に横から急に「でも江戸時代だったら瓦版だったよね。」と口を挟まれるようなものでしょうか。

 

なにが「でも」なんでしょうか。接続詞の使い方が意味不明です。

率直に言えば、この様な表現をする輩は嫌われる以前に関わらないほうが良い人間扱いされてしまうことは請け合いでしょう。

 

 

と、ここまで書いたはいいんですが、今日(2019/02/04)の東京での最高気温は19.4℃。平年よりおよそ10℃高く、4月中旬並みの気温です。

そういえば朝起きて窓を開けた際、鼻孔を春の香りがくすぐってきたことを思い出しました。

 

すいません。どう考えても今日は春です。前言撤回します。

以上、関わらないほうが良い人間の日記でした。

 

俺には「恵方巻」が理解できない

こんばんは、WoodLetterというものです。乱文失礼いたします。

この記事を読むとおよそ5KB消費します(文字のみの容量)。

 

突然ですが、私には「恵方巻」が理解できません。

いや、理解していないことに気づいてしまったのです。

 

ja.wikipedia.org恵方巻」については詳しくはWikipediaを参照していただけると幸いです。

端的に表すと太巻き寿司のことです。

 

早速恵方巻」の理解できないポイントを3つ挙げてみましたので、ご一読していただければ幸いです。

 

 

 

1.「太巻き」であることがよくわからない

まずご覧いただきたい写真があります。

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ふんがっふっふ [モデル:大川竜弥]©すしぱく [PAKUTASO]

これが恵方巻」の正しい食べ方とされています。

・・・不思議じゃないですか?

古来、人間には食べやすいように食材を加工する「調理」という過程があります。「調理」の過程の中には、より美味しく食べる他に、食べやすい形状に加工するといったものがあります。

一方、上記の写真では男性がその口腔内のキャパシティを大幅に超えた太巻き寿司を一思いにかぶりついています。

我々人類は「刃物」という道具を用いて、太巻き寿司などの大きく、長い食品を丁度よい大きさにカットする技術を有しています。もしこの技術に反してかぶりつこうものならば、その日からあなたには「食いしん坊キャラ」が定着することとなるでしょう。あだ名はホンジャマカ石ちゃん

 

しかし、この「恵方巻」においては石ちゃんはもちろん、大食いの片鱗も見せない華奢な人間や小さな子どもなど老若男女を問わず一思いにかぶりつきます。心の中の石ちゃんが表へ出てくる―――

それが「恵方巻」です。

 

 

 

2.「恵方」がよくわからない

恵方」とは、「恵方巻」を食べる際に向く方角だとされています。その方角は毎年異なるそうですが、今年(2019年)の恵方は「東北東」とされています。

 

・・・東北東?

 

東でも北でもありません。「東北東」です。普段の生活ではまず聞かない言葉です。

聞いたことありますか、東北東って。

仮に街で道に迷ったシチュエーションを想像してみましょう。なお、スマホは私が水没させたので使えないものとします。

その時、あなたは勇気を出して街行く人にこう聞くことでしょう。

 

「すいません、〇〇駅はどちらにあるか教えていただけますか?」

 

すると、相手はこう答えます。

 

「ここから東北東の方角ですよ。」

 

もはや不親切などという次元ではありません。私が想像するに、この時のあなたの感情は「恐怖」で支配されます。未知との遭遇です。

道を聞かれて方角で答えるのも大概意味不明なのにもかかわらず、相手から引き出した回答は「東北東」―――

 

余談ですが、恵方には前述した「東北東」以外にも「西南西」「南南東」「北北西」があるそうですが、普段の生活では使わないことには変わりありません。もしあなたがこれらの言葉を使った日には、あなた自身が豆を撒かれる側になることは疑う余地もありません。

 

ただ一つ、「恵方巻」を除いては。

恵方には陰陽道において、その年の歳神様がいる方向という意味があるそうですが、恵方巻をたくさん作って捨てている偉い人たちもそんなことは知らないと思うので触れません。知っていてやってたらバチあたりにもほどがある。

 

 

 

3.「なぜ全国的になったのか」がわからない

Wikipediaを読まれた方ならお分かりだと思いますが、この「恵方巻」もともとは近畿地方の一部で行われていた風習だそうです。

 

まぁ「コンビニ業界が広めたんだろ。」って言われたらそれまでなんですけど、それにしたって拡散が早すぎるように思えます。Wikipediaを参考にすると、コンビニ業界が恵方巻を広めはじめたのが1989年(平成元年)で、ミツカンの調査で認知度が9割弱に到達したのが2005年となっているので、僅か15年の間で節分の日に「恵方巻」とよばれる太巻き寿司をかぶりつく行為が、それまでの「豆まき」と並ぶポジションを得たことを示しています。

 

考えてもみてください、今まで外国勤めが相次ぎ、15年ぶりにようやく日本で落ち着けると考えていたサラリーマンの彼を。

帰国したところ、母国・日本では国民の大多数が太巻き寿司にかぶりついていた・・・

また、地域によって「恵方巻」には「無言で食べる」という風習がありますので、そのことを彼が疑問に思っていたとしても、直ぐに回答は返ってきません。一心不乱に一点を見つめながら太巻き寿司を食べるプロセスを彼は眺める必要があります。

 

果たして彼は食べるプロセスを眺め続けることができるのでしょうか?

 

私の予想では、変わり果てた母国に絶望してそのまま成田空港へトンボ帰り。JFK空港に再び降り立った彼はそのままニューヨーカーとして人生を終えることとなるでしょう。

 

 

 

最後に(弁明)

今回の「恵方巻」から一つ理解できたことがあります。

恵方巻」は祭りであることです。

話は変わりますが、私の愛してやまない街・川崎には「かなまら祭り」という奇祭があります。詳しく説明することは省略させていただきますが、端的に言うならば「男性器を模した神輿を担ぎ、街を練り歩く。」といった祭りです。検索する際は自己責任で。

言うまでもありませんが、祭りの日以外にこの神輿を担いだ日には良くても川崎警察署で一夜を過ごすことになるでしょうし、最悪の場合は何らかと法的措置をとられるかもしれません。

 

このように「祭り」というものは普段では許されないことが許される傾向にあります。柳田國男氏の「ハレとケ」を用いた一部の民俗学研究では、普段の生活である「ケ」のエネルギーを蓄えるために、祭りや祝い事である「ハレ」があるとされています。

恵方巻」もその一部です。したがって上記にあるような「道案内を細かな方角でする人」や「15年ぶりに日本に帰ってきたサラリーマン」が産まれることはありえないでしょう。「食いしん坊キャラ」はたまに見ますけど。

 

この結論に照らし合わせると、大量に作った恵方巻を廃棄することも10年後、20年後には一大イベントになることが想定されます。

そんなわけないか。

 

使用フリー素材

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Twitterhttps://twitter.com/WoodLetterZ

「お前には理解できない」とか言う人は本当に理解しているのかという疑問。

はじめに

お初にお目にかかります。

こんばんは、WoodLetterという者です。

 

この記事は私の愚痴が主題ですので、ご注意ください。

 

主題

さて先日、私は上の者に呼び出されてこんな言葉をいただきました。

 

「お前は分かったようにして私の話を聞いているが、本当は分かっていない。」

 

 まぁ

  • 「分かるように伝えるのが貴方の仕事では無いのか。」
  • 「それならわざわざ何のために貴方は私を呼び出したのか。」
  • 「そもそもお前の言葉が『分かる』価値があると誰が保証してくれるのか。」

 とか小生意気な疑問点は沢山あるんですけど、この言葉を聞いた時に私が一番思うのが、

 

「本当に貴方は『理解している人間』なのか。」

 

という言葉につきます。

 

いや、「理解していない」私のような者が申し上げるのは恐れ多いことではあると思うんですけど、この言葉が浮かんできてしまうのです。

というか「俺は理解している」というマウントにしか感じないんです。

 

 

だってそりゃそうでしょ、だって貴方が言った言葉を貴方自身が理解できていないのであれば、それはもう哲学でしょうよ。まぁよく知らんけど。

 

 

まぁ「生意気な奴に仕方なく言っている。」と言われれば、それまでなのでしょう。

 

しかし生意気な若者ムーブを放つ私からしてみると、シシャモの小骨と同じくらいには引っかかる言葉なのです。

 

 

そして「理解しているのか」という疑問とともに思い浮かぶのがこの曲、

アンパンマンのマーチ

アンパンマンのマーチ

  • ドリーミング
  • アニメ
  • ¥250



そうです。 国民的ヒーロー、日本で一番有名なパンが主人公のアニメことそれいけ!アンパンマンのOP曲で著名なアンパンマンのマーチです。

 

僭越ながら、アニメ「それいけ!アンパンマン」について簡単に説明させていただきますと、

  • 1988年秋開始の幼児向けアニメ。放送開始から2019年冬現在に至るまでの123クールに渡り、全国の幼児層をメインとして絶大な人気と知名度を誇り続ける。日本テレビにおいては、2016年春の番組改編以降、毎週金曜AM10:55〜11:25の30分間放映されている。(幼稚園・保育園に通う子どもが見れない時間帯。)

 

ソースがWikipediaなことに心配を抱く諸兄もいらっしゃるとは思いますが、私の知る限りではインターネット上でアンパンマンについて詳しく書かれたアクティブなサイトはここであると思う次第ですので、ご理解いただければ幸いです。

 

さて、 アンパンマンのマーチ」「理解」という言葉が二つ並んだことから、お察しの方も多いと思われますが、単刀直入に申し上げますと、この曲を「理解」出来る人はいるのでしょうか?

 

 

 

まずは出だしから引用してみましょう

そうだ うれしいんだ

生(い)きる よろこび

たとえ 胸(むね)の傷(きず)が痛んでも

(アンパンマンのマーチ 作詞:やなせたかし)

 

はい。出だしから重みのある歌詞です。

年間約2万1000人の方が自殺をしている(厚労省統計)この現代。生きているだけで喜びであるというこの考え方は、現代を生きる我々に投げかけられた問いであると解釈することもできるのではないでしょうか。

この序文だけでも「理解」に難き歌詞であることがお分かりいただけたのではないかと思います。

 

 

次に、曲の中でも特に有名な節を引用してみます 

なんのために 生(う)まれて

なにをして 生(い)きるのか

こたえられないなんて

そんなのは いやだ!

(アンパンマンのマーチ 作詞:やなせたかし)

 

人の核心をついたような一文。人としてのあり方を表すのに最も単純かつ一番響く言葉なのではないでしょうか。

特に自分自身を見失っている方にとっては、辛くとも重く、また希望に満ちている歌詞に強く感じるのではないかと推測します。迷走とは違います。

 

人としてのあり方を表す―――

一見としてシンプルなようでありますが、それ故に「理解」するのが難しくなる効果を生み出していると考えます。

 

 

続いてこちらの歌詞

忘(わす)れないで 夢(ゆめ)を

こぼさないで 涙(なみだ)

(アンパンマンのマーチ 作詞:やなせたかし)

 

どの角度から読んでみても、到底幼児向けアニメの主題歌とは考えにくいこの一文。

前述の歌詞に引き続き、人としての在り方について歌っている一文であると私は解釈します。

幼い頃に抱いていた夢や希望―――

そういったものを忘れないでほしいと訴えかけていることから、この歌詞は子どもに向けられている体裁をとりながらも、実際には成長してしまった人へ向けて訴えかけているのでは無いかと考えます。

 

とくに「涙」という部分では殊更にそうであると言えるでしょう。多くの場合、子どもは周りの大人に怒られたときや、友達とケンカした際に「怒り」から涙を流すものであって、感動や自らの不甲斐なさなど「哀しみ」から涙を流す機会は皆無に等しいと考えられます。

また、「涙」という節が歌われる前に「忘れないで 夢を」と歌われていることから、ここで流される涙は、夢を忘れるような状況下において流される「哀しみ」の涙であると推量することができ、このことも歌詞をやや難解なものにしていると思います。

 

 

最後にこちらの歌詞

愛(あい)と 勇気(ゆうき)だけが ともだちさ

(アンパンマンのマーチ 作詞:やなせたかし)

 

正直なところ、私にはこの歌詞の意味を推量することすらままなりません。

 

いや、この積み上がってゆく富の象徴---汚れきった摩天楼の下で生きる人間には、もう推量することすらも許されなくなってしまったのでしょう。

 

悪を許容し、自らの利潤を追求する---成長という名の妥協が我々を縛りつけ、最終的には何も残らない。そんなアンチテーゼが隠れているのではないでしょうか。

 

 

 

 終わりに

さて、このように一見何気のない、アニメの曲だと見過ごしてしまう場所にも「理解」するには困難とも言える歌詞が隠れています。

特に「アンパンマンのマーチ」のように作り手の想いが現れている曲では尚のことでしょう。

今回、私が取り上げたのはその一部に過ぎず、実際に全文を読んだ際には、全く違う印象やここでの解釈が的外れであると思う場合も多いのでは無いかと思います。なんせ私は「理解していない」側の人間ですので。

 

 

本当に貴方は理解できている人間でしょうか?

そもそも「理解できている」とは何なのでしょうか?

 

このブログはそういった「理解」に対して目を瞑り、考えることを放棄するアプローチを試みたいと考えています。

 

 

※この記事の信憑性等は一切保証いたしません。

 

 

引用元

アンパンマンのマーチ」作詞:やなせたかし

 

 

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